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2009年6月 3日 (水)

6.3埼玉会・日司連会長選挙立会演説会 

埼玉曾立会演説会 資料
http://cid-40af2084ec7d6699.skydrive.live.com/browse.aspx/090603NSR-tachiaienzetsu
細田論文2(登記業務関係編ー民事法研究会「市民と法」57号から)
http://cid-40af2084ec7d6699.skydrive.live.com/self.aspx/.Public/hosoda-%7C52%7C62009.6.pdf

会長候補音声
http://cid-40af2084ec7d6699.skydrive.live.com/browse.aspx/NSR-kaichoukouhoshoshin-onsei
理事候補音声
http://cid-40af2084ec7d6699.skydrive.live.com/browse.aspx/NSR-rijikouho-onsei
質疑応答
http://cid-40af2084ec7d6699.skydrive.live.com/self.aspx/.Public/025%7C_shitsugi-V.MP3

やはり争点は、データセンター構想というか会則改正(本人確認記録保管問題)か?

一見、個人情報保護法についての考えが違うからか?と思うが、むしろ、そもそも

近代市民法における登記制度の役割についての考え方の違いがあるのかもしれない。

「頭が登記」という発言に象徴されるように、登記の仕事を単なる代書的な仕事、機械的にパターン化された補助者でもできる仕事だと思い込んでいるから、司法書士ごときが本人確認の記録をとったり保管したりするのは、おこがましいという発想になるのではないのか?

ここ数ヶ月、登記制度の発祥について、仲間の協力により少しずつ文献に目を通してきた。

日本の登記制度の発展については、

福島正夫先生の「旧登記法の制定とその意義」

清水誠先生「わが国における登記制度の歩みー素描と試論ー」

いずれも日司連編『不動産登記制度の歴史と展望(不動産登記法公布100周年記念)』(有斐閣、昭61)

新谷正夫先生「登記制度の変遷」(登記研究100号、昭31)

渡辺洋三先生「登記簿と台帳の一元化問題」(ジュリ175、昭和34)

同 先生 法社会学研究4「財産と法」(東京大学出版会、1973)より
「ふたたび登記簿と台帳の一元化問題について」
(初出:ジュリスト198号・1960年)
「附-不動産登記制度の歴史とその社会的背景」
(初出:法学セミナー1972年12月号)

鈴木禄弥「物権法講義(五訂版)」(創文社)

などなど。

あとはNHKスペシャルも。http://www.nhk.or.jp/special/onair/050514.html
2005年5月14日NHKスペシャル
「明治 第三集 税制改革、官と民の攻防」
≪参考文献≫『地租改正の研究』福島正夫(有斐閣)ほか

こういうところからみると、いかにして明治の近代化における登記制度は、税金をとるために検地もせずに、地券を与えることで、いい加減に済ませてきたかがわかります。だから、戸長がいいかげんな公証をして、登記事務が懈怠してしまったのです。

諸外国では、フランス法の公証人にしても、ドイツの登記判事にしても、近代市民法の究極の理念である「私権の保護」のために、登記制度ができていたわけであって、その意義を抜きに、日本の登記制度を考えることは、日本をいまだ近代国家として認められていないことを自白することになる。

だからこそ、いま登記制度の意味を考えるときに、私権の保護のためにこそ、いままで登記を担ってきた自負のもとに、官に頼ることなく、自分たちの手で、国民の力になっていかねばならないのであると思う。そのための第一歩として、登記立会記録の保管があり、データセンター構想があるのだと理解している。

私は、個人情報保護法がいかにあろうとも、これを守るべき利益よりも、将来の国民の私権の保護のために、登記法における登記確認記録は永久保存されていかねばならないと思う。

なぜなら、官による30年保存は、官のための理屈であって、司法書士会の要望でなされたわけではないからである。官と銀行の間で勝手に決めた保存期間を司法書士が黙って追随すべきものではない。30年たったらあっというまに廃棄される制度で言い訳がない。

しかも、本人確認記録の問題で言えば、司法書士の管理下にあるものと、官に保管されているものとでは、いついかなる権限で、本人確認記録が官憲の目にさらされるというのかわからないではないか?本人確認記録の反対派は、その点をどのように説明するか?

もっといえば、登記原因証明情報を本人確認外の情報と一体化させるというが、単なる添付書類にすぎないとされるものが、官の元にあるということは、保護されるべき個人情報も官の目にさらされるということになる。このことは確認記録の二次利用の反対とどのように整合性をとるのだろうか?

私も、登記原因証明情報との一体化には反対するものではないが、それは、私権の保護の目的上、登記制度を利用する国民は、登記制度の権原情報調査に利用される限りにおいて、個人情報の二次利用をオプトアウトしていると考えられるので、司法書士の本人確認記録保存保管についても、許容されるものと考えている。

このことによって、官憲の目にさらされることがあってはならないのであれば、あえて、官の保管に任せてそのような危険を冒すことなく、司法書士の手で保管をしていくのがよほど理にかなっている。

明治の検地が官の変な理屈でおこなわれなかったように、官の制度に任せきりにしていたのでは、いつまでたっても司法書士主導の制度はできあがらない。この転換期にもまた、司法書士という民主導で、登記権原証明にたるデータセンターをつくるべきではないだろうか?